夏の製茶が終わり一日休みをとり本日から畑仕事。

と思っていたのだが、やはり天気がおかしい…太陽のピークは12~14時ぐらいで過ぎれば少し落ち着くのだが…。

今日は午後4時を回っても外へ出られるような暑さでない為に畑仕事は断念。。

紅茶の酸化発酵

数日前に大先生がオーダーを受けて作っていた烏龍紅茶


ちょうど大先生が8月4日~5日に作った紅茶を持ち出して工場の奥へ行ったのでその作業を手伝う。
どうやら、ティーバッグにするらしく専用の機械で茶葉を細かく砕いていた。

その後夜に一人のお客さんが来た。
大先生のお客さんで僕はその場に立ち会っていたのだがどうやらこの方が紅茶を依頼された方らしい。

実は今回の紅茶、元々は「日東紅茶が欲しい」と言われて先生が作ったもの。

「日東紅茶って…それどういう事ですか(笑)?」と突っ込んだのは覚えているが…
これは恐らく大先生が僕に伝える時にだいぶはしょっているのでお客さんが70歳前後だったことから推測すると
「昔の日東紅茶のような美味しい紅茶が欲しい」と言ったものだと思っている。

烏龍紅茶2012

出来上がった紅茶を…

ティーバッグの機械

専用の機械で粉砕、年期モノです

日本の統治時代に日東紅茶は繁栄を極めた。
大先生からは統治時代の事についてたまに話を聞くのだが、日東紅茶を含め当時の日本人の働きぶりをよく褒める。

日東紅茶の主産地であった日月潭は日本人が紅茶作りに適した場所として探しあてた土地である。
この話は有名だが、当時の日本の茶に対する研究はかなり進んだものだったらしい。
紅茶作りに関しては常にデータを獲るように言われ、その積み重ねで現地の人も知識や技術をつけていった。

僕が滞在する桃園の一部は台地になっているのだが、ここも良いお茶が出来る土地として探し出したのは当時の三井財閥系の日本人だ。

「あの時代に土と天候の事まで深く理解して台湾中の土地を調べていた日本人がいたんだよ!本当に凄い事だよ」と事あるごとに言われる。

しかし、大戦後、蒋介石の時代となり日東紅茶は繁栄を終えた、この時代は農家は茶を育てる事は出来たが自分で製茶する事は国の政策として一切許されなかった。
この政策が茶の品質の低下を招き、紅茶産業自体が国際競争力を失っていった。。

同時にこの期間に台湾の後世へのお茶の技術伝搬という部分では相当失われた部分が出ていると思う。

日月潭の風景

台湾の観光地として知らない人はいない日月潭


観光地という立地条件もあり日月潭に代表される台湾の紅茶産業は消える事はなかった。
そしてここ何年かの台湾国内での紅茶ブームもあり、全国的に紅茶を作る方も増えてきている。

でも、大先生が他の紅茶を口にする度に良く出る言葉が…
「おかしいね…日東紅茶はどこへいった!?」だ。。

勿論日月潭近辺においてちゃんとしたものを作っている個人の方はいるだろう。
でも、昔の日東紅茶のようなある程度の品質を保ち安定した量が市場に出てくるのは難しいのかもしれない。
僕等は当時の事はわからないが、ちゃんとお茶の良し悪しの判別がつき、自らもレベルの高いお茶を作る大先生がそう言うのだから…
当時の規模的に考えて極上品とまではいかなくてもある程度品質の安定したものを大量に作り上げていたのだと思う。

昨年一緒に日月潭に地元のお茶農家さん達と観光に行った際に試飲した時も同じ事を言っていた。。

紅茶のティーバッグ

粉砕した紅茶、この後枝取りなどして出物を取り除く


大先生に今回紅茶を頼んできた方は勿論お茶関係の卸などをしている方だが、やはり同じような事を思っているのかもしれない。
今回大先生が作ったものは烏龍品種の紅茶だがその方はテイスティングをしてかなり満足したようでその後も笑顔で話していた。
やはり日東紅茶というよりちゃんとした紅茶を欲しがっていたのだなと思う。

日本でも昨今紅茶作りが一部で盛んになってきているが僕が
「日本でも最近作る方は多いけど、飲んだ感じよくわからないものが多い」
と言うと、
「どうして!?日東紅茶は日本人が作ったのに何故日本で作れる人がいない?」
となんとなく悲しそうな顔をして言われたのが印象的だった。。

本当にどこにいったんでしょう。。

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